もうだいぶ経ちますが、結婚式を挙げていないあたしたちのために、
友人たちが集まって披露宴を催してくれました。
籍を入れたのはもう5年ほど前になりますかね。
(はっきり覚えていない、女房おこるかな(^_^;)
親父の入院とその後の他界、喪に服していた事などがありまして、
「ま、式を挙げることもないか」と。
女房も、こだわっていないと口では言っていたので、
心の其処をわかってはいても、あたしの気持ちの中で握りつぶしておりました。
親父が闘病中に女房を紹介しに病院へ行ったのが6年前ですかね。
正直、何かいわれやしないかとどきどきしておりました。
あたしは在日韓国人でして、親父は本国で生まれた一世であります。
韓日両国には大きな事件も過去にあり、一世にはいろいろとわだかまりがあります。
その上に、あたしが一度結婚に失敗しておりますから、
親父がどうのという前に、あたしのほうが申し訳ない気持ちがありましたな。
ぴりぴりしながら「こいつと一緒になりたいんだ」と言った時、
女房の顔をじっと見ていた親父は、「よかったじゃないか」と。
いい笑顔で答えてくれました。
あたしは拍子抜けしちまって、その場にへたり込みそうになったのを
昨日のことのように覚えております。
一時退院をいたしまして、自宅から透析へ通うようになった頃、
あたしたち夫婦が家へ遊びによりますと、「よくきたな」と、
とてもうれしそうな顔をしておりましたな。
女房が席を立ったときに、「あの子はいい子だな」と笑った
親父の顔があたしが見た最後の顔でありました。
喪が明けましてその年の凧も終わりある会合のとき、
「披露宴ぐらいはやらないの?」と中沢町の後輩が聞いてきました。
口を濁していたあたしに、「やったほうがいいよ。会費制でやればいいんじゃない?」
かくして、中沢町男子会の音頭取りで披露宴が行われることになりました。
場所はコンコルド浜松。
ここには当時あたしの同級生で、
族 ツーリング仲間だった
「モーやん」ことタケシがおりまして、シェフを務めていたんですな。
彼が営業との間に入ってくれまして、事はつつがなく進むかに見えました。
話が進展していくさなか、タケシがくも膜下出血で他界いたしました。
急なことで声もでませんでした。
彼の計らいで、後輩たちがその後の仕事をしっかり継いでいたようであります。
当日、どんな装いで出ようかと女房が言うので、
「韓服を着ればいいよ、作ろう」とあたしが言いましたら、
女房は笑顔でうなずきまして、韓服、「チマ・チョゴリ」を作ることになりました。
披露宴当日は、中沢町男子会の顔を立て、
海関連の友人は本当に少人数に絞り込んで、
参加をお願いいたしました。
この時には、あきちゃんも来てくれましたな。
ひな壇に座らされまして、まんじりともせず
参加してくれた皆さんの顔を眺めたものです。
チマ・チョゴリを着た女房を見て、遠州系韓国人のお袋は、
「あんたほい、似合うや~ばかきれいだに~」とご満悦でありましたな。
お色直しでは、やはり中沢といえば、これでしょう。
皆での「大杯」の回し飲みから始まり、
ラッパと、太鼓の音で響き渡る会場所狭しと練り歩きましたな。
料理もたくさん出まして、それぞれの方たちが楽しんでくれたようでありました。
「アボジ(おとうさん)に、あたしが
チマ・チョゴリを着ているところを見て欲しかったわ」
いまだに女房は言います。
果たせなかった思いを女房は悔しがりますが、
親父はたぶん「あの子はいい子だな」と言った時、
すでにそれで満足だったのでしょう。
親父やお袋はいうまでもなく、披露宴を催してくれた
中沢町男子会の皆さんには本当に感謝しております。
今年も凧の日程がひとつずつ決まっていきます。
大変ではありますが、気持ちはわくわくしておりますよ。
箱の中に綺麗にしまいこんだ「韓服」
女房は、どこぞの披露宴にでも呼ばれたときにでも、
また着ようと画策しているようであります。
(ま、目立つわな)